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蜜――はちみつといえば、古代世界におけるほぼ唯一の甘味調味料です。砂糖のヨーロッパ世界での流通は中世――11世紀以降まで待たなくてはなりません。このミツバチの恵み、自然の贈り物をわたしたちはとても大切なものとして長く扱ってきました。そのことは、さまざまな詩の中で、はちみつが様々なもののたとえに使われていることにも現れています。

 

……すると神のほうでは、あたりを見回して、そっと甘い(μελιηδέα 蜜のように甘い)ざくろの種を与え食べさせた。
(『デーメーテールへの讃歌』371-372、片山英男訳)

 

果物の甘みを蜂蜜に例えて表現するのは、砂糖のない時代においてはごく自然なことのように思われます。しかし、ここから先ご紹介するのは、現代を生きる私たちからするとすこし驚くような蜂蜜のたとえです。
西洋世界最古にして最高の叙事詩、紀元前八世紀に訪れた言葉を使う芸術の夜明け、古代ギリシア人たちの知と生活と創造の礎であった、偉大なる『イーリアス』――この英雄叙事詩の中には、今もなおわたしたちを新鮮な喜びや驚きで満たすような詩的表現が数多くきらめいています。わたしがイーリアスに触れるたび、特に驚かされるのは、その比喩―それも直喩―のダイナミックさと鮮やかさです。長々と情景を描写する、まるで巨大なスクリーンで映画を見ているかのような見事な比喩については、またいつかご紹介することにして、ここでは、比較的コンパクトな、蜂蜜のたとえをいくつかあげましょう。

 

風呂から上がり、オリーヴ油を肌にたっぷりと塗ると食膳につき、満々とみたした混酒器から甘美の(μελιηδέα 蜜のように甘い)酒を汲んで、アテネに献酒した。
(『イーリアス』第十歌577-579、松平千秋訳)

 

……この時二人の前につと立ち上がったのが、弁舌さわやかなネストル――ピュロスの国の名立たる雄弁家で、その口からは蜜よりも甘い言葉が流れ出る。
(『イーリアス』第一歌248-249)

 

葡萄酒の甘さ、そして巧みな弁舌が密にたとえられています。これはわかりやすいですね。しかし、わたしが大好きな、びっくりするような、ホメーロス先生の蜂蜜のたとえはこちら。

 

怒りというものは、分別ある人をも煽って猛り狂わせ、また咽喉にとろけこむ蜜よりも遥かに甘く、人の胸内に煙のごとく沸き立ってくる。
(『イーリアス』18歌110-111、アキレウスのセリフより。)

 

ここで、蜂蜜の甘さにたとえられているのは、怒りです。なんとすさまじい表現でしょうか。「蜂蜜」と「怒り」という、一見結びつきそうにないものが直喩で結びつけられたことによって、ギリシアの大地のはぐくむ、あの濃く粘度の高い蜂蜜の、喉を焼くような激しい甘さをわたしたちは思い出し、この怒りがどれほど濃密で激しいものなのか、味覚を伴ってイメージできます。そして同時に、激烈に怒っている時に感じる、ある種の快楽のようなものに気が付くのです。比喩というものは、このように、結び付けられた双方に、新しい感覚や価値、イメージを与えるものなのだと、『イーリアス』は教えてくれます。

さて、現在のギリシャにおいても蜂蜜は名産品です。お土産売り場には蜂蜜や蜂蜜のナッツ漬けが愛らしい壺型のガラス瓶に詰められて並び、またホテルの朝食で食べる蜂蜜のおいしさは忘れられないものになります。日本でも手に入るギリシャのコスメブランドに「アピヴィータ」がありますが、このブランドのロゴマークも、ミツバチをモチーフにしています。このミツバチモチーフはアピヴィータのオリジナルデザインではなく、紀元前1800-1700年ごろにクレタ島で作られたアクセサリーがもとになっています。

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ギリシア本土で文明が栄える以前にクレタ島で栄華を誇ったミノア文明の非常に美しい宝飾品です。二匹の蜂が蜂の巣を抱えて向き合い、そこからは蜂蜜が滴り落ちています。レプリカがお土産品でよく売られていますが(わたしも買いました)、本物は比べようもなく精巧です。ミノア文明の出土品は、ウシやタコなど、様々な動物を生き生きと写していますが、このミツバチのデザインはとりわけ秀逸です。愛らしく、優雅で、生命力にあふれています。彼らがどれほどミツバチを大切に思っていたか、ミツバチからもたらされる蜜を重宝していたかが伝わるようです。

現代のわたしたちの数倍も深く、昔の人々ははちみつを愛し、重用していたことでしょう。そんな蜂蜜が、美術作品の中にあらわれたり、詩の中で言及されたりするとき、そこには、わたしたちが想像する以上の、なにか強力な魅力や魔力が渦巻いているように思われてなりません。

そんなわけで、わたしは時々、蜜よりも甘い、という表現の恐ろしさに震えるのです。

皆さんにとって「蜜よりも甘い」ものは何でしょうか?ご意見をお聞かせいただけたら嬉しいです。それではχαίρετε(ごきげんよう)! ふたばでした。

 

(「蜜よりも甘い」怒りがスパークする『ひとりギリシア悲劇 コエーポロイ』の上演は11月11日・12日!ぜひぜひ足をお運びください。ご予約お待ちしております)

 

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